日本人にとっての「違う」という言葉 – 同調圧力と言葉の限界

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違う意見に対する日本人の見方について – ハフポストの投稿より

ハフポストにてフリーライターの雨宮紫苑さんによる記事を拝見しました。

「ちがう意見=敵」と思ってしまう日本人には、議論をする技術が必要だ。

筆者もこれまで外資系企業の中で外国人と仕事をしたり、あるいは他社の外国人と仕事をしたりという経験がある中で、この記事で書かれている内容には非常に思わされるところがありました。

このブログ記事では、筆者の考えを述べたいと思います。

日本語の「違う」という言葉について

日本の「違う」という言葉には実は大きくわけると2つの意味があります。

考えてみればこの2つの意味はすぐわかるのですが、日本人としては実は気づきにくいポイントであります。

1つ目の意味は「異なる」という意味です。

すなわち「AとBは違う」=「AとBは異なる」の意味です。

これは同一ではないという意味で英単語にするならばDifferentの意味となります。

もう1つの意味は「間違っている」という意味です。

すなわち「この問題に対するAの答えは違う」=「この問題に対するAの答えは間違っている」

これは正しくないという意味で英単語にするならWrongの意味となります。

実はこの2つの意味をなんとなく分けながら使っているのですが、聞こえる言葉としては2つとも「違う」です。

島国であり同一民族である日本人にとっての「違う」とは

「違う」の異なる2つの意味ですが、実は我々日本人にとっては同じ言葉を使っても問題がありません。

すなわち「違う」の2つの意味=「異なる」と「間違う」の意味がほぼ同じ文脈で使えてしまうからです。

日本は同一民族・同一言語・同一文化の国です。

したがって、同調圧力が強く、周りの雰囲気に合わせることを求められます。

「空気を読め」「自己責任」などと言った言葉はその最たる事例とも言えるでしょう。

そのような環境や文脈の中では「異なる」=Differentであることは「間違う」=Wrongであることとほぼ同義になります。

異なる振る舞いをすることは、正しくない振る舞いをすることとして認識されます。

すなわち2つの意味を持つはずの「違う」が同じ言葉で良いことの意味はそこにあります。

日本の文化においては、どちらも結局同じ意味なのです。

異なっているということは間違い、という解釈になります。

今後の世の中ではこの考え方は通用しない

しかしながら、この視野の持ち方は今後の世の中においては通用しません。

まず日本が同一民族という形式では持たなくなってきています。

日本の人口は減少の一途をたどるだけでなく、急速な高齢化が進んでいます。

このままでは生産人口が急速減少することは明らかで、如何に個人あたりの生産性を上げようとも、この減少スピードには追いつきません。

日本政府は制作的に移民に対してはどっちつかずのスタンスですが、実質的には企業の経済活動によって多くの移民が日本で仕事をしていることは事実です。

したがって時間を追うにつれて同一民族とは言えない状況になっていくならば、いろんな意味で「異なる」人が増えることは必至です。

しかもビジネスやネットワークはどんどんグローバルになり、コロナ後の世界はバーチャルにいろいろなものが自由につながる世の中になるはずですので、その中での多様な意見に直面することが今後はもっと増えるでしょう。

ですので「異なる」ことは当たり前、それだけでは正しいかどうかなんてわからない、すなわち多様な意見をぶつけながら正解に近づいていくという思考法が求められます。

最後に

日本人の同一文化・同一言語・同一民族の特徴は、集団行動における調和と同期という点でメリットをもたらしてくれる一方、多様なバックグラウンドの人間が参加する行動やイベントにおいては、逆に日本人的な偏見が邪魔になるでしょう。

とにかく異なる意見、異なる見方があることを前提にした合意形成の経験を増やしていくことが日本人にとっては重要と思います。

皆さんにとって何かしらの参考になれば幸いです。

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